「大丈夫だよ」と言ってくれる人は、いた。
友達、家族、たまに連絡をくれる同僚。気にかけてくれる人は、ゼロじゃなかった。
「無理しないでね」「いつでも話聞くよ」
その言葉がうれしかったのは本当です。受け取った夜は少しだけ気持ちが軽くなって、今日は早く寝よう、明日は少し動こう、と思える。
でも朝が来ると、部屋は昨日のままです。シンクに溜まった食器、出しそびれたゴミ袋、返せていないメール、開けていない封筒。なにひとつ変わっていない。
「大丈夫だよ」の言葉は、たしかに昨夜あったはずなのに、朝の自分には届いていない。
やさしさが足りなかったんじゃないと思います。やさしい人はちゃんといた。足りなかったのは、「この生活の、どこが詰まっているのか」を一緒に見てくれる人だった。
これは、このサービスを運営してきた中で、何人かの利用者の方から聞いた話でもあります。「やさしい人ならいたんです。でも、やさしいだけじゃどうにもならなかった」。
そう言う方の表情は、怒りではなく困惑に近かった。なぜ自分は、こんなにやさしくしてもらっているのに変われないんだろう、と。
この記事は、話を聞いてもらうだけでは動かなかった経験がある方に向けて書きます。もしあなたが「動けない日が続いている」という感覚に覚えがあるなら、その続きとして読んでみてください。
「やさしい」と「動ける」は、別のものだった
誰かに「大丈夫」と言ってもらって持ち直せることは、あります。仕事で失敗した日、人間関係で嫌なことがあった日。そういう一時的な落ち込みには、やさしい言葉が効く。
でも、「生活そのものが止まっている」ときは違います。
朝起きられない。起きても何から始めればいいかわからない。洗濯機を回すところまではできるのに、干す段階で手が止まる。「干すだけなのに」と自分で思っている。
思っているのに動けない。夕方になってようやく体が動き出して、コンビニに行って何か買って食べて、気がついたら深夜2時で、また明日も同じことを繰り返すんだろうなと思いながら目を閉じる。
こういう日々が1週間、2週間と続いているとき、「大丈夫だよ」は届かないんです。聞こえてはいる。ありがたいとも思う。でも、朝が来たときの自分にはなにも残っていない。
ここで言いたいのは、やさしい人が悪いということじゃないです。友達が冷たいとか、家族が理解してくれないとか、そういう話でもない。
やさしさの届く範囲と、今あなたが困っている場所が、ただズレている。やさしさは感情に届く。でも、生活の仕組みには届かない。そういう話です。
共感のあとに残る空白
「わかるよ、つらいよね」と共感してもらえることも大事です。「自分のことをわかってくれる人がいる」という感覚は、それだけで救いになることがある。
ただ、以前ある利用者の方がこう言っていました。「わかるよと言われるたびに、わかってもらえてうれしいとでもわかっただけじゃ明日も同じだが同時に来る」と。
これは共感してくれる人が悪いわけじゃない。ただ、共感と生活の再構築は、別の作業なんです。
気持ちを受け止めてくれる人と、暮らしの仕組みを一緒に見てくれる人は、同じ人である場合もある。でも求められている機能が違う。
「つらかったね」は感情への応答で、「朝、最初に何をしてますか?」は生活への問いかけです。どちらも必要な場面があるけれど、両方を同時にくれる相手はなかなかいない。
書きながら思ったんですが、「機能」という言葉はちょっと冷たく聞こえるかもしれません。でも、あえてこの言葉を使います。今ここで必要なのは、温かさについての話ではなく、「何がどう働くと、あなたの生活が少しだけ動き出すか」の話だからです。
もうひとつ、これはサービスを運営している中で何度も見てきたことですが、「共感してくれる人がいるのに状況が変わらない」という経験が続くと、人はだんだん話すこと自体をやめていきます。
話しても同じだ、と。もしくは、「話して楽になった気がしたけど、結局なんにも変わっていなかった」という失望が重なって、次に誰かに打ち明けるハードルが上がる。
これは共感の限界ではなく、共感に「次」がなかったことの問題だと思っています。気持ちを受け止めたあと、「じゃあ暮らしのどこをどう動かすか」に進める相手がいなかった。そこが空白のまま残っていた。
「生活の仕組みを見る」という専門性
世の中には、「生活のどこで詰まっているか」を見る仕事をしている人がいます。
症状名をつけるのではなく、暮らしの中の「できない」を「どういう条件ならできるか」に変換していく仕事です。朝起きられないなら、「だらしない」で終わらせない。
それが体内リズムの問題なのか、寝室の環境なのか、起きた後にやることが決まっていないからなのかを、一つずつ分解して見ていく。
片づけられないなら、性格の問題にしない。ものの置き場所が決まっていないのか、判断を求められる回数が多すぎて疲れているのか、そもそも収納の動線が暮らしの流れに合っていないのか。
「なぜできないか」ではなく、「どうすればできるようになるか」の方向から見る。
これは気合いの問題じゃないです。根性で解決する話でもない。「頑張ればできる」の手前に、仕組みの問題がある。そこを見る専門職が、作業療法士(OT)と呼ばれる人たちです。
発達特性のグレーゾーンで毎日が回らなくなっている人にとっても、休職から復帰しようとして生活の足場が崩れている人にとっても、「症状」の話ではなく「暮らしの組み替え」の話ができる相手がいるかどうかは、かなり大きな違いになります。
少し脱線しますが、私がこのサービスを運営する中で調べていたとき、作業療法士という職種の説明に「日常生活動作の改善を支援する国家資格保有者」と書いてあるページがいくつもありました。
正しいんだと思います。でも、これを読んで「あ、それ私に必要な人だ」と思える人は少ないんじゃないかと感じた。「日常生活動作の改善」と言われても、自分の朝起きられない問題や、シンクに食器が3日分溜まっている問題と結びつかない。
だから、この記事では資格の説明ではなく、「その人がいると何が変わるのか」を書こうとしています。
「話し相手」と「暮らしを見る人」のあいだ
当店「ふたりしずかに」は、レンタルフレンドのサービスです。
基本的には話し相手になること、一緒に過ごすことが中心になります。
でも正直に書くと、「ただ話を聞いてほしい」だけではない方が、少なくない数いらっしゃいます。話しているうちに、「で、結局どうしたらいいんでしょう」という問いが出てくる。
友達に話したらスッキリする類の悩みではなく、「生活がうまく回っていない」という問題を抱えている方です。
ここは正直、私もずっと考えてきたことです。レンタルフレンドのサービスで、どこまで踏み込んでいいのか。「話を聞く」の範囲を超えてしまうのではないか。
かといって、目の前の人が暮らしの仕組みに詰まっていることに気づいているのに、ただ相槌を打つだけでいいのか。
その答えのひとつが、「生活を見る専門性を持った人がフレンドとしている」という形でした。治療をするわけじゃない。診断をするわけでもない。
ただ、「暮らしのどこが詰まっているか」を見る目を持った人が、隣にいる。それだけで、会話の質が変わることがある。
ひなたという人の話をします
当店のフレンドに、ひなたがいます。23歳。作業療法士の国家資格を持っていて、病院でリハビリの仕事をしている現役の医療職です。神奈川から都内にかけて活動しています。
ひなたがレンタルフレンドとして会うとき、「治療」をするわけではありません。診断もしないし、リハビリを提供するわけでもない。それは医療機関の役割です。
ただ、ひなたの中には「暮らしのどこで詰まっているかを見る目」がある。それは本業で毎日向き合っていることだから、特別な構えがなくても、会話の中に自然とその視点が入ってくる。
たとえば、「最近朝起きられなくて」と話したとき、「つらいですね」だけで終わらない人です。「起きた後、最初に何をしていますか?」と聞くかもしれない。
「寝る前の1時間、何をしていますか?」と聞くかもしれない。そこには、励ましでも同情でもない、「暮らしを見る人の問いかけ」が入っている。
こういう視点を持った人が、レンタルフレンドとしている。だから話し相手以上のことが起きることがある。それが当店の持っているひとつの形です。
誤解してほしくないのは、ひなたが「指導する人」ではないということです。「こうしなさい」「こう変えなさい」と言う人ではない。
一緒にカフェに座って、話を聞いて、ときどき「それ、いつからですか?」「その前に何かありましたか?」と聞く。それだけです。でも、その「それだけ」の中に、暮らしの仕組みを見る目が入っている。
1回で何かが劇的に変わるわけじゃないです。変わらなかった方もいますし、合わなかったという声もあります。
でも、「話を聞いてもらっただけなのに、なんとなく生活の中のここが詰まっていたんだと見えた」とおっしゃる方がいたのも事実です。
やさしさを否定したいわけじゃない。でも、それだけでは足りなかった人へ
あなたの周りにいるやさしい人たちを否定したいわけじゃないです。友達の「無理しないでね」も、家族の「いつでも頼って」も、嘘じゃないはずです。
ただ、もしその言葉を受け取った翌朝も同じ部屋で同じように立ち尽くしているなら。シンクの食器がそのままで、返せていないメールが増え続けて、「今日こそ」と思った予定をまた延ばしているなら。
それは「やさしさ」が足りなかったんじゃなくて、「暮らしの仕組みを見る目」が必要だっただけかもしれない。
必要だったのに、自分でもそう思わなかった。だって、「片づけられない」「朝起きられない」「メールが返せない」なんて、誰かに相談するようなことだと思えなかったから。
みんな普通にやれていることが自分にはできない。それを口にしたら、怠けだと思われるんじゃないか。甘えだと言われるんじゃないか。
でも、それが何週間も続いて、生活が止まりかけているなら、それは相談していいことです。しかも、その相談先は病院でもカウンセラーでもなくていい場合がある。「暮らしの仕組みを一緒に見てくれる人と、カフェで60分話す」という形だってある。
「こんな些細なことで人に会うなんて」と思うかもしれません。でも、あなたにとってそれが些細じゃなくなっているから、今この記事を読んでいるんだと思います。
朝起きられないことが些細じゃなくなるのは、それが3日、1週間、1ヶ月と続いたときです。メールが返せないことが些細じゃなくなるのは、そのメールが5通、10通と溜まって、開くこと自体が怖くなったときです。
そうなってからでも遅くはないけれど、できればその手前で、「暮らしのどこが詰まっているか」を見てくれる人に会えたほうがいい。
友達に話す。カウンセリングに行く。それも選択肢です。でもそのどちらにもしっくりこなかった方にとって、「生活の詰まりを見る目を持った人と過ごす時間」という選択肢があることを、知っておいてほしいと思います。
動けない。わかっている。何から手をつけたらいいかわからない。誰かに聞いてほしいけど、「聞いてもらう」だけじゃ足りないことも、もう気づいている。
そういうとき、「大丈夫だよ」じゃなくて、「どこから詰まってますか?」と聞いてくれる人がいたら。少しだけ、景色が変わることがあります。
「雑談が怖い」という気持ちを抱えている方に向けて書いた記事もあります。話すこと自体にハードルがある場合は、そちらも読んでみてください。
次の記事では、「準備ができてから」を待たなくていい、ということについて書いています。完璧に準備してからじゃなくていい。ぐちゃぐちゃのまま来てくれていい


