カウンセリングに行くほどじゃない。
何度、そう思ったかわかりません。
でも、友達に話しても「大丈夫だよ」で終わる。夜、布団の中で考えごとが止まらない。
明日も何かをやらなきゃいけないのに、何をどうすればいいかわからない。そういう日が積み重なっていく。
カウンセリングの予約サイトを開いたことはありました。
でも、「主訴を入力してください」という欄で手が止まる。
- 私の「主訴」って何だろう。
- 病名があるわけでもない。
- 死にたいわけでもない。
- ただ、なんとなく生活がうまく回っていない。
それを50分のセッションで話して、何がどうなるんだろう。
そう思って、画面を閉じた人は少なくないと思います。
この記事は、カウンセリングと友達のあいだで迷っている人に向けて書いています。
- 「自分の困りごとに名前がつかない」
- 「でも確かにしんどい」
その感覚を、もう少し具体的な言葉にしてみたいと思います。
カウンセリングが「合わない」のではなく、「そこじゃない」のかもしれない
主訴が書けない、という困りごと
カウンセリングに行けなかった理由を聞くと、「予約のハードルが高かった」という声をよく聞きます。でも、もう少し掘り下げると、ハードルの正体は「料金」や「場所」ではないことが多い。
「何を相談すればいいかわからなかった」。
これがいちばん大きいのではないかと、私はこのサービスを運営しながら感じています。
カウンセリングは基本的に、「困りごとを言葉にして持っていく場所」です。
うつの症状がある、パニックで電車に乗れない、職場の人間関係がつらい。
そういう明確な「これが問題です」を持っている人にとっては、力になる場だと思います。
でも、そうじゃない場合がある。
朝起きるのがしんどい。部屋が散らかっていくのを止められない。
やらなきゃいけないことが山積みなのに、どれにも手がつかない。
LINEの返信がたまっている。外に出るのがなんとなく億劫。
全部がぼんやり重い。でも、どれかひとつが致命的に壊れているわけでもない。
こういう状態を「主訴」として50分で説明しろと言われたら、困る。
困るというより、「こんなことで専門家の時間を使っていいのか」という気持ちが先に立つ。
カウンセリングが「合わない」わけではないんです。カウンセリングという場所が扱おうとしているものと、自分が抱えているものが、少しだけずれている。
そのずれを言語化できないから、「合わなかった」という一語で片づけてしまう。
友達に話したら「考えすぎだよ」と言われた
じゃあ友達に話せばいいかというと、それも違う。
友達は「聞いてくれる」。でも、「聞く」と「整理する」は違います。
友達が悪いわけじゃないんです。友達はカウンセラーじゃないし、カウンセラーである必要もない。
ただ、「聞いてもらえた」という安心感と、「何も変わらなかった」という落胆が同時に来ることがある。
話した直後は少し楽になる。
でも翌朝、同じ布団の中で同じことを考えている自分がいる。
カウンセリングほど重い場ではない。でも友達のあいだでは足りない。
その「あいだ」にあるものが、ずっと見つからなかった。そういう人がいると思います。
「病名がつかない」ことの、しんどさ
診断されないから「甘え」に分類される
正直に書きます。
カウンセリングにも行けず、友達にも話せず、という状態が続くと、多くの人がたどり着く結論があります。
「これは甘えなんだろう」
病名がつかない。検査しても異常がない。薬が出るわけでもない。
じゃあ、ただの怠けだろう。自分に問題があるんだろう。気持ちの持ちようなんだろう。
書きながら思うんですが、これは論理としておかしいんです。
「病名がつかない=問題がない」ではない。
ただ、「今の医療の枠組みで名前がつく状態」に当てはまらないだけかもしれない。
たとえば、発達特性のグレーゾーン。診断基準は満たさないけれど、日常のいたるところで小さなつまずきがある。
マルチタスクが苦手、優先順位がつけられない、時間の感覚がずれる。
どれも致命的ではないけれど、積み重なると生活が回らなくなる。
あるいは、軽度のうつ傾向。「うつ病」とまでは診断されないけれど、朝が重い、意欲がない、涙が出る。
外から見れば普通に生活しているように見える。
だから、周囲も「元気そうだよね」と言う。本人も「元気なはずだ」と思い込もうとする。
こういう人たちの困りごとを、カウンセリングが拾えないわけではないんです。
ただ、本人が「こんなことで行くのは大げさだ」と感じてしまう。そしてそのまま、誰にも話せないまま時間だけが過ぎる。
「動けない日が続いている」と気づいたとき、私が最初にしたことで書いたように、この「動けなさ」には理由がある場合が多いんです。
気合いの問題ではなく、生活の「仕組み」のどこかが詰まっている。でも、その仕組みを一人で見つけるのはとても難しい。
必要なのは「診断」でも「共感」でもなかった
少しだけ、私の話をさせてください。
このサービスを始める前、何人かの方の話を聞く機会がありました。
「カウンセリングに行ったけど、2回目は行かなかった」という方が複数いて、その理由がよく似ていました。
「悪い先生じゃなかった。ちゃんと聞いてくれた。でも、セッションが終わって帰宅して、翌朝もやっぱり同じ状態だった」。
逆に、友達に話して楽になったという人もいたけれど、「でも1週間もすると同じモヤモヤに戻った」と。
共感が無意味だとは思いません。でも、「わかるよ」と言ってもらっても、シンクに溜まった食器は片づかない。朝起きる仕組みが変わるわけでもない。
役所に出さなきゃいけない書類が勝手に書き上がるわけでもない。
生活の中で「何がどう詰まっているか」が見えないまま、気持ちだけが少し楽になって、でもまた元に戻る。
ここで「じゃあ何が必要なのか」という話になります。
ひとつの考え方として、「感情」ではなく「生活の仕組み」を見る、というアプローチがあります。気持ちに名前をつけるのではなくて、「朝、どこで止まっているのか」「家事のどの手順で詰まっているのか」「外出の何が具体的に怖いのか」を、一つずつ見ていく。
これはカウンセリングとは少し違う。友達との会話ともまた違う。もう少し具体的で、もう少し生活に近い。
ちなみに、こういう「暮らしのどこで詰まっているかを見る」ことを仕事にしている専門職が、世の中にはあります。
あまり知られていないけれど。病名をつける仕事ではなく、「生活の中のできないを、どういう条件ならできるかに変換する仕事」をしている人たちです。
「聞くだけ」で終わらない場所がある
カウンセリングでもない、友達でもない「第三の選択肢」
正直にいうと、この話をするときにいつも迷います。「レンタルフレンド」という言葉に対する抵抗感が読者にあることを知っているからです。
でも、ここでは事実だけ書きます。
当店「ふたりしずかに」は、内向的な女性のためのレンタルフレンドサービスです。
カフェで話を聞くこともあれば、散歩に付き合うこともある。通話だけの利用もできます。
ただ、「話を聞いてもらう」だけのサービスではありません。当店には、医療・福祉の現場経験を持つフレンドが在籍しています。
なかには、「生活のどこで詰まっているか」を見ることを仕事にしてきた人もいる。
作業療法士の国家資格を持つフレンドもいて、その人は普段、病院で「暮らしの中のうまくいかない」に向き合う仕事をしています。
「やさしい人」が欲しかったんじゃない。「現実に動ける人」が必要だったという記事で詳しく書いていますが、当店が大事にしているのは「共感で終わらないこと」です。
もちろん話を聞く。でも、「聞いたあと、あなたの生活の何が少しでも動くか」をフレンドは考えています。
「症状名じゃなくて、暮らしのどこで詰まっているかを見る」。これが、カウンセリングとも友達とも違うところです。
「完璧に困ってから」じゃなくていい
利用された方の中に、こうおっしゃった方がいました。
「自分がどう困っているか、うまく説明できないまま予約した。でも、フレンドと話しているうちに、困りごとの輪郭が少しずつ見えてきた」。
これは、考えてみれば当然のことかもしれません。「困りごとを整理してから相談する」のは、順番が逆です。整理できないから困っている。整理するために、誰かが必要なんです。
カウンセリングの予約フォームで「主訴」が書けなかったあなたは、甘えているんじゃない。困りごとの形がまだ言葉になっていないだけです。
当店のフレンドは、「あなたの困りごとが言葉になる前の段階」から一緒にいることができます。
沈黙があっても構わない。「何を話していいかわからない」から始めて構わない。
そもそも、うちのフレンドは沈黙を怖がりません。
内向的な女性のために作ったサービスだから、「うまく話さなきゃ」というプレッシャーを取り除くことを最初から設計に入れています。
生活がうまく回らないけど、どこから手をつけたらいいかわからない。
そんなとき、「一緒に見てくれる人がいる」ということを、知っておいてほしいんです。
今すぐ使わなくてもいい。
ただ、「こういう選択肢がある」ということが、頭の片隅にあるだけで、少し楽になることがあります。
もし、「頼ること自体に迷っている」という方は、頼っていいのか、まだわからない。でも、一人で抱えるのは限界だったに、もう少し踏み込んで書いています。

