「今日、何回大丈夫ですって言ったか数えてみたんです」
ある方のその一言が、ずっと頭から離れない。本音が言えないのではなく、言葉が出る前に「大丈夫」が反射的に口をつく。
そんな方が、フレンドの前では一度もその言葉を言わなかった日のことを書きます。
「大丈夫」の数を、数えてみたことはありますか
ある方が、利用中にふとこう言った。
「今日、職場で何回”大丈夫です”って言ったか、数えてみたんです。十一回でした」
その方は笑っていた。でも、笑い方がどこか疲れている感じがした。
フレンドも黙って聞いていた。カフェのBGMがやけに大きく聞こえる、あの独特の間だった。
私はその話を後からフレンドの報告で知ったのだけれど、しばらく頭から離れなかった。十一回。朝の九時から夕方六時までの間に、十一回「大丈夫です」と言い続けた一日を想像してみる。
体調が悪い日も。本音を言えばしんどい日も。誰かに代わってほしいくらい疲れた日も。「大丈夫です」で蓋をする。それがもう、反射のようになっている人がいる。
反射としての「大丈夫」
これは私の感覚だけれど、うちを利用してくださる方には「大丈夫」が得意な人が多い。得意、というと語弊があるかもしれない。もう身体に染みついている、のほうが近い。
職場で「大丈夫?」と聞かれたら「大丈夫です」。友達に「最近どう?」と聞かれたら「元気だよ」。家族に「無理してない?」と聞かれたら「平気」。
本音が言えないというより、もっと手前の話だと思う。本音を言うかどうかの選択肢が出る前に、「大丈夫」が口をついて出てしまう。
ある方は「大丈夫って言いすぎて、本当に大丈夫じゃないときの言葉がわからなくなった」とおっしゃっていた。
その言葉を聞いたとき、私は少し黙ってしまった。
「大丈夫」を言わなかった日のこと
このサービスを始めてから、ずっと考えていたことがある。「人見知りを直す」のではなく、「そのままでいられる場所をつくる」ということ。→その話はこちらで書きました
それと同じように、感情を抑え込むクセのある方に対して、「もっと本音を言いましょう」と促すのは違うと思っている。「本音を言わなきゃ」がまた新しいプレッシャーになるだけだから。
だからうちのフレンドには、相手に「大丈夫?」と聞かないでほしい、と伝えている。
聞かなければ、「大丈夫です」と答えなくて済む。それだけのことだけれど、そこに少しだけ余白が生まれる。
何も聞かれなかった時間に起きたこと
あるとき、カフェで二時間ほど過ごした方がいた。フレンドはずっと隣で本を読んでいたらしい。特に会話もない。聞いてもいない。ただ、同じテーブルにいるだけの時間。
その方は帰り際に「今日、一回も大丈夫って言わなかった」と笑った。
フレンドから報告を聞いたとき、私は嬉しいとかそういう感情ではなくて、ただ「ああ、よかったな」と思った。うまく言えないけど、胸のあたりが少しゆるんだ。
感情が戻ってくる順番
ここから先は私の推測ではなく、利用を重ねてくださっている方から聞いた話だ。
感情を抑え込んでいた方が、フレンドとの時間を通じて少しずつ変わっていくとき、最初に戻ってくるのは「不快感」なのだという。
嫌だったこと、しんどかったこと、悲しかったこと。それが言葉にできるようになるのが先で、嬉しいとか楽しいはもう少し後から来るらしい。
これは私にとって意外だった。つい「楽しかったです」という声を期待してしまう自分がいたから。
でも、考えてみれば当然かもしれない。長いあいだ押し込めていたものが、重い順に出てくるだけの話だ。
ある方は、「自分のこと、少し好きになれた気がします」と言ってくれた。→その話はこちらに
でもそう言えるようになるまでには、何回も「しんどかった」「つらかった」を先に出す時間があった。私はそれを見てきたから、「好きになれた」の一言にどれだけの過程があったかを少しだけ知っている。
つくりたかった場所のこと
最近ふと思ったのだけれど、私は「大丈夫って言わなくていい場所」をつくりたかったのかもしれない。
サービスを始めた当初はそこまで言語化できていなかったけれど、今はそう思う。
大丈夫じゃなくてもいい。本音が言えなくてもいい。言えないまま、ただここにいるだけでいい。
それは関係ないことかもしれないけれど、先週コンビニで「お箸つけますか?」と聞かれて「大丈夫です」と答えたとき、ふとさっきの方のことを思い出した。
私も十一回のうちの一回だったな、と。立場は違うけれど、この言葉の便利さと、その裏側にあるものについて、私もまだ考え続けている。
きれいにまとまる話ではない。でも、少なくとも一つだけわかっていることがある。
「大丈夫」と言わなかった時間を過ごした方の表情は、来たときとは少し違う。力が抜けている、というのが一番近い。それが何よりの答えだと、私は思っている。

