「職場で少しだけ雑談できるようになりました」
絵文字もスタンプもない一行のLINEに、私は返信できなかった。
雑談が怖かった方が、自分の力で踏み出した一歩。
その「少しだけ」に込められた重さと、変化を語ることへの運営者としての葛藤を書きました。
「職場で少しだけ雑談できるようになりました」
先日、ある方から届いたLINEのメッセージに、私はしばらく返信ができなかった。
「職場で少しだけ雑談できるようになりました」
たった一行。絵文字もスタンプもない。でも、その方がこの一行を送ってくるまでにどれだけの時間がかかったか。私にはわかる気がした。
その方は、フレンドとの時間を何度か重ねてきた方だった。最初に申し込んでくれたときの問い合わせメッセージは、ものすごく丁寧で、ものすごく長かった。
予約するという行為そのものに、どれほど勇気が要ったのかが文面から伝わってきた。
職場での雑談が苦手だと、以前おっしゃっていた。お昼の休憩時間が怖いと。みんなが何気なくしている会話の輪に入れない自分が、どこか欠陥品のように感じると。
その言葉を聞いたとき、私は何も言えなかった。
「そんなことないですよ」と言うのは簡単だ。
でもその方が何年もかけて積み上げてきた感覚を、私の一言で否定していいはずがない。
雑談が「できない」んじゃなくて、怖い
雑談が苦手な人の話を聞いていると、ほとんどの場合、「能力がない」のではないということに気づく。
怖いのだ。
話しかけて無視されたらどうしよう。変なことを言って空気を壊したらどうしよう。沈黙ができたら自分のせいだと思われるんじゃないか。そういう恐怖が積み重なって、口を開く前にブレーキがかかる。
私はこの仕事を始める前、話し相手がいないのは自分のせいだと思い込んでいる人がこんなに多いということを知らなかった。
でも運営を続けるうちに、それは個人の問題ではなく、構造の問題だと思うようになった。
職場では「明るくてコミュニケーション能力が高い人」が評価される。会議で発言する人が目立つ。
ランチを一人で食べていると、なんとなく心配される。そういう空気の中で、口数の少ない人は自分を責めるようになっていく。
「雑談力」という言葉があるけど、私はあまり好きじゃない。
雑談を「力」として捉えた瞬間、それができない自分は「力不足」になってしまうから。
ある報告が届くまでのこと
冒頭の方の話に戻る。
その方は月に1回くらいのペースで、フレンドとカフェで話す時間を過ごしていた。
特別な相談があるわけではなく、最近あったことをぽつぽつ話す。それだけの時間だったと、担当のフレンドから聞いている。
カフェでフレンドと向き合って過ごす時間というのは、外から見ればただのお茶の時間に見えると思う。
でもその方にとっては、「自分の話を聞いてもらえる」「変なことを言っても否定されない」という経験を積む時間だったのだと思う。
思う、としか言えない。本当のところは、ご本人にしかわからないから。
ただ、フレンドが報告の中でこんなことを言っていた。「最初の頃は、話し始めるまでにすごく時間がかかっていた。でも最近は、会ってすぐに『あ、聞いてください』って切り出してくれるようになった」と。
私はその報告を読んで、少し黙った。
変化は、目に見えないところで起きている
「職場で雑談できるようになった」という報告を受け取って、私が感じたのは、正直に言うと嬉しさだけではなかった。
嬉しかった。それは間違いない。でも同時に、この変化をうちのサービスの「成果」として語ることへの違和感もあった。
その方が雑談できるようになったのは、その方自身が積み上げたものだ。フレンドとの時間はきっかけの一つにすぎない。もしかしたら、他にもいろんな要因があったかもしれない。
職場の環境が少し変わったとか、たまたま話しやすい同僚が異動してきたとか。
私はこの仕事をしていて、「おかげで変わりました」と言っていただくことがある。ありがたい。
でも、その言葉をそのまま受け取ってはいけないと思っている。変わったのはその人自身であって、私たちはただ横にいただけだ。
ふと思い出したことがある。学生の頃、部活の先輩が言った言葉。
「練習はお前がやったんだ。コーチが走ったわけじゃない」
なんの脈絡もないけれど、このメッセージを読み返しているとき、ふいにその言葉がよみがえった。
「少しだけ」の重さ
その方のメッセージをもう一度読む。
「職場で少しだけ雑談できるようになりました」
「少しだけ」という言葉に、私はこの方の誠実さを感じる。
大げさに言わない。自分を過大評価しない。でも確かに何かが変わったから、それを伝えたいと思ってくれた。
雑談が苦手だった人が「少しだけ雑談できるようになった」ということの重さは、たぶん、雑談に困ったことがない人にはわかりにくい。
お昼休みに「今日寒いですね」と言えただけで、胸がどきどきして、手が震えて、でも相手が「ほんとですね」と返してくれたとき、どれだけほっとするか。
私はそういう場面を想像するしかできない。
でも、この仕事を通じて、その「少しだけ」がどれほどの勇気の上に成り立っているかは、少しずつわかるようになってきた気がする。
返信を打った。
「教えてくれてありがとうございます。それ、すごいことだと思います」
送信した後に、もう少し何か書けたんじゃないかとも思った。
でも、これ以上言葉を重ねると、この方の「少しだけ」を私が大きくしてしまう気がした。
あの一行は、あの方のものだ。私が飾っていいものではない。
変わらなくてもいい、でも
一つだけ、正直に書いておきたいことがある。
この仕事をしていると、「変化」を見せたくなる誘惑がある。
利用してくれた方がこう変わりました、こんなに元気になりましたと書けたら、サービスとしての説得力は増す。
でも、変わらなくてもいいと私は思っている。
フレンドとの時間を過ごして、何も変わらなかったという方もいる。それはそれでいい。その時間が穏やかであったなら、それだけで意味はあったと思いたい。
変化はあくまで副産物で、目的ではない。
今回たまたま「雑談できるようになった」という報告があった。嬉しかった。
でも、次に届くメッセージが「特に変わってないけど、また行きたいです」だったとしても、私は同じくらい嬉しいと思う。
たぶん。
いや、同じくらいかどうかは、正直わからない。人間だから、変化の報告の方がやっぱり嬉しくなってしまうかもしれない。
そういう自分への警戒を忘れないようにしたい、というのが今の私の正直なところだ。

